私を形成する『影』の部分。
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最終幕 3
元ダンナが家を出てから、私は毎日のように整理整頓をしていた。

結婚と同時に購入した電化製品や元ダンナが実家から持参した物
そして元ダンナの衣類や元ダンナの使用していた物品の『処分』だ。

正直、この期間が婚姻生活の中で一番辛い瞬間かもしれない。
私はこんな風になるために結婚したのではない。幸せな結婚生活を
夢見ていた頃の自分自身を全て『否定』しなければならないのだ。

私以外に、この家に帰宅する者は居なくなってしまった。
もう待っていても、門扉を開ける音はしないのである。

ある日、元ダンナ宛に自宅に電話が掛かって来た。かつて
聞いたことの有る営業口調だ。私はそれがすぐに『消費者金融』
からの借入返済を催促する電話だと察した。迷惑な話だった。

元ダンナはここには住んでいない旨を告げ、元ダンナの携帯
電話の番号を教えた。変に隠し立てする義理など私には無い。

この頃『離婚届』の元ダンナの欄は、まだ空欄だった。
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最終幕 2
元ダンナが私に宛てた『置手紙』には「俺はもっと取り返しの
つかない事をしているかも知れない」と書かれてあった。

その文面から私が察するに、元ダンナはまた『消費者金融』から
借入をしていたと思われる。一刻も早くこの男と離婚しなければ
籍が入っている限り、私宅は借金のカタに取られる可能性も有る。

晩になり元ダンナと『財産分与』の協議を行った。とは言え
私達には子供も無く、夫婦の財産などたかが知れている。

私は当然『居宅』を取り、元ダンナには転居費用や当面発生する
費用などに充てる『支度金』を用意する形でスムーズに和解した。

翌日になり会社から帰宅した元ダンナは、僅かな手荷物と布団
などを勤務先の同僚宅へ運ぶ段取りをし、我が家を出て行った。
その他の荷物は、住居が確定してから順次運ぶ予定だったようだ。

私は元ダンナが出た直後、元ダンナが使用していた物を一箇所
にまとめ、元ダンナが好んで使用していた場所を、まるで何かに
とり憑かれて『滅菌』するかのように一心不乱に磨き、洗浄した。

元ダンナの『匂い』のする物品など、二度と見たくも無かった。
最終幕 1
元ダンナは自分の預金口座へ給与振込みが有ったと同時に
その大半を引き出していた。用途はあえて詮索しなかったが
私に『生活費』を渡す気など微塵も無かったのだろう。

私は元ダンナとの『離婚』を再度決意し『離婚届』を役所で
入手した。過去に一度『離婚届』を入手したことが有るが
あの時とは状況が違う。もう私の気持ちに迷いは無かった。

自宅に用紙を持ち帰り記入を終え、元ダンナの帰宅を待った。

そして帰宅した元ダンナに「もう終わりにしよう」と告げた。

元ダンナは黙って話を聞いていたが、今回は私の決心が固いと
察したのだろう。一言「俺は家なんていらなかった」と言った。

しかしそんなことは、もうどうでも良かった。私は購入した
『棲家』を守って行きたかったし、何より心穏やかに暮らす
ことを望んでいた。この男はそう願う私の生活を脅かす。

私は記入済みの『離婚届』を差し出し、元ダンナに記入を
促したが、元ダンナはすぐには記入しなかった。散々身勝手に
振る舞い、この後に及んで何をためらっていたのだろうか。

翌朝、元ダンナが私に宛てた一通の『置手紙』を見つけた。
宣戦布告
私は元ダンナに銀行のキャッシュカードを渡してから
月々いくらかを『生活費』として受け取ることにした。

元ダンナの給与のおおよその手取り額は把握していたが
それに比べて『生活費』として渡される額が少なすぎる。
その額は月を追うごとに、次第に減少していった。

私はもう、元ダンナには何も期待はしていなかった。
夫婦生活を続けている意味など無かったはずなのに
なぜか私自身の収入のみで細々と生活を続けていたのだ。

当時は世帯主である元ダンナの預金口座から、公共料金
などを引き落としていたが、ある日電気代の引き落としが
出来なかったという一枚のハガキが自宅へと届いた。

私は銀行ATMへ向かい、通帳記入をして事実を知った。
元ダンナは給与の振込と同時に大半をキャッシュカードで
引き出しており、口座には僅か数千円しか残していない。

これでは電気代のみならず、他の料金の引き落としも不可能だ。

私は元ダンナの私に対する『宣戦布告』だと認識した。

同時に私は「私の人生にこの男は不要だ」と改めて悟った。
生活費
元ダンナは父の闘病中、一度も入院先へ顔を出さなかった。
私も期待はしていなかったが、家族は不思議に思っただろう。

父が他界し諸々の行事が終わり、私はまた元ダンナとの
冷めた夫婦生活を送っていた。この頃にはお互いに仕事を
していた事もあり、会話も無く寝室は別になっていた。

いわゆる『家庭内別居』に近い状態だったように思う。

元ダンナには毎月決まった金額を渡していたが、毎晩飲んで
帰宅するので、当然渡している金額内では収まらない。
次第に追加の金額を私に要求するようになっていた。

元ダンナは『消費者金融』から容易に借入をする男だった。
私はまた数十万円の一括返済を恐れ、元ダンナに銀行の
キャッシュカードを渡し、生活費を入れてもらう形を取った。

しかし、ここから夫婦関係は一気に破綻へと向かう。
恋心
週一毎の父の法要が済む頃、私は勤務先の少し年下の
独身男性と意気投合し、色々話をするようになっていた。

元ダンナとの結婚生活や甥の死、父の死の悲しみなど
細部に渡って彼に聞いてもらっているうちに、私は彼に
対して次第に『淡い恋心』を抱くようになって行った。

私は昔から『不倫』を毛嫌いしており、もちろん経験は無かった。
『人妻』だった当時も『独身』だった彼に関係を迫る事は無く
ただ一緒に食事をする機会が、数回有っただけだった。

独身だった彼は、他人の結婚生活の話などを聞いても
理解できなかったと思うが、自分なりの意見を述べてくれた。
私は彼に話すことにより、随分と気持ちが楽になったものだ。

しかし彼は経営者とトラブルを起こし、突然退職した。

私達はお互いに携帯電話の連絡先を交換していたが、深い
関係にはなっていなかったので、その後も連絡を取り合うと
言うことは無く、顔を合わすことも当然無くなってしまった。

私は完全に『心の拠り所』を失ってしまい、何かポッカリと
心に穴が開いたような気分になり、何もやる気が起こらない。

また元ダンナとの冷めた夫婦生活を、悶々と送るしかなくなった。
父 5
真冬の小雪が舞う中、厳かに父の葬儀は執り行われた。
皮肉にも私の結婚式の時に撮った、満面の笑みを浮かべて
いる父のスナップ写真が『遺影』として使用されたのだ。

参列者の中には、父が倒れる直前まで一緒に勤務して
いたという女性が居り、職場での父の話を聞かせてくれた。

父は甥の葬式当日に職場で残務整理などしていたようだが
女性が「早くご家族の元へ帰宅して下さい」と促しても
父は「帰宅しても自分にできる事が無い」と言ったそうだ。

父は目を真っ赤にして、非常に憔悴した様子だったらしい。
『脳梗塞』を起こすほど心身にダメージを受けたのだろう。

父の葬儀中、私は人目をはばかることなく号泣していた。
しかし『喪主』であった母は、父を最期まで送らないと
いけないという使命感からか、終始気丈に振舞っていた。

灰になった父の骨は、とても頑丈そうで綺麗なものだった。

実家は父を介護しやすいようにリフォームを施していた。
父は亡くなる年の正月に一度だけ、実家へ帰宅して過ごしたが
二度目の帰宅は、父自身の『形』が変わってからとなった。

もう元の『形』の父は、どこを探しても見つけることは出来ない。
父 4
ナースセンターに設置されていた父の『心電図』を確認
すると、低い位置で波打っている心拍数が、一瞬更に低く
落ちる時が有った。次第にその回数も多くなって行った。

主治医は父の『延命措置』を私達に提案したが、辛そうな
父の姿を見守る時間が長くなるだけで、何より父の綺麗な
身体を傷つけることが嫌だったため、私達はそれを拒否した。

看護婦が父の脈を測りに来るが、ほとんど確認されない状態だ。

父は相変わらず荒い呼吸をしていたが、口元に手をかざしても
息は出ていない。まるで義務のように動かしているようだった。

その義務のような呼吸の動作もだんだんと弱くなり、やがて
機械のバッテリーが切れたように父の動きは静かに止まった。
父は家族だけの見守る中、その生涯に幕を下ろしたのだ。

やはり主治医の判断は正しかった。父が他界したのは『山場』と
宣告された3日目の早朝だった。私達は父が他界してしまった悲しみ
よりも「長い間お疲れ様でした」と労う気持ちの方が大きかった。

父のお通夜は亡くなった当日に某会館で行われ、母達は
別室で仮眠を取っていたが、私はずっと父の亡骸の傍に居た。
たまに棺の中の父の顔を覗き込むと、様々な回想がされた。

甥が死亡した時と同じように、父の亡骸もまた『剥製』のようだった。
父 3
いつ父の容態が急変するかわからないので、その日
から、私達家族は途切れることなく父の傍に居た。

酸素マスクをしている父の呼吸は荒いままで、時折水を
含ませたガーゼで口周りを拭いたりして、口の渇きを潤し
ていたが、そんな事より私は父に何か食べさせたかった。

父は10日間も食事を与えられていないのだ。何でも
好き嫌い無く食していた父だけに、可哀相で仕方がない。

既に父は自力では起き上がることが出来なくなっていた。

オムツを取替えるため、たまに看護婦に身体を起こされて
いたが、父の腰には『床ずれ』が出来ていた。私は『床ずれ』
が出来た人間は『死んでしまう』と聞いた話を思い出した。

父の両足は血液が回らなくなったのか冷たくなり、所々に
『斑点』が出来始めた。母は身内が父の最期に会いに来る度に
父の足元の布団を剥いで、足の状態を見せ説明していた。

やがて父は尿が止まってしまった。おそらく腎機能が停止
してしまったのだろう。以降は順次、各機能が停止して行く。

本当に『脳』というのは『精密な機械』であると思う瞬間だった。
父 2
病院へ駆けつけると、父は個室に移動させられており
室内には母と近くに住んでいた父の妹、つまり『叔母』が
エプロン、キャップ、マスクを着用した姿で父の傍に居た。

私もエプロン等を着用して室内に入った。点滴を受けながら
酸素マスクをしている父は呼吸が荒く、その辛そうな姿を見た
私の目からは涙がこぼれ落ちた。本当はまだ泣くには早い。

ベッドの脇に父の食事の日程表が下がっていた。おそらく
高熱で食欲が無かったのか、父は10日程食事を与えられて
いない様子だ。それを見た私は更に涙が止まらなくなった。

しかし家族が集まっているのに長女である私が泣いている
ワケにはいかない。私は必死で涙を食い止めようとするが
そう思えば思うほど、皮肉にも涙が溢れて来るのだ。

そんな中、主治医から母と弟が呼び出され父の容態について
説明を受けたようだ。二人の話によると父は非常に厳しい
状態で、この3日間が『山場』だと宣告されたらしい。

私達家族は父の体力が持ち直す、わずかな確率に期待したが
『死』という最悪な状態も覚悟しておかなければいけない。

私は呆けて何もわからなくなりたいと心の底から思った。
父 1
父は少し山手に有る『リハビリ専門』の病院に入院していたが
やはり回復の見込みが無いため、6ヶ月で転院を余儀なくされた。

転院先は母や私が住む市内に有り、通院も気分的には楽に
なったが、父の体力は徐々に落ちており『リハビリ施設』が
有るとは言え、参加がままならない日が増えて来ていた。

その頃の父は、体温調節機能が麻痺していたのでよく発熱
していた。発熱すると食欲も無くなるのだろう。食もだんだんと
細くなり、病院へ出向くと父は横になっていることが多かった。

それでも意識はしっかりとしていたので、私達家族は父に
色々な話を聞かせ、時には菓子類などの差し入れをしていたが
菓子類を食べる父は、まるで子供のように嬉しそうだった。

しかし頻繁に出す高熱で、やがて父は『寝たきり』に近い
状態になり、私達家族が出向いても反応を示さなくなった。
誰が来ているのか理解ができる程度だったように思う。

ある日、私の勤務先に「父が危ない」と義妹から電話が入った。

母や弟や妹は既に病院へ駆けつけたと言うので、私も急遽
勤務先を早退し、父の入院先へタクシーで向かった。

「危ない」とはどういうことか。私は動揺を隠し切れなかった。
第二幕
自宅に元ダンナ宛の電話が掛かって来た。相手が名乗った
名前は聞いたことが無く、話し口調は軽快な感じだった。

その当時元ダンナは携帯電話を持っていて、知人などは
元ダンナの携帯電話に連絡を入れていたように思う。

私は何かの販売、若しくは勧誘の営業の電話だと思った。

帰宅した元ダンナに聞き覚えの無い人間からの電話が
有ったと伝えると、勤務先の営業の者だと言っていた。

元ダンナは某工場の現場に勤務していたが、私の知る
範囲では営業の人間と直接関わったことは無いのである。

腑に落ちないままとりあえずは納得したが、数日後
同じく軽快な口調で話す別の人間から電話が掛かった。

全て元ダンナ宛だ。さすがに私も不審に思い元ダンナを
問い詰めると、元ダンナはまた同じことを繰り返していた。

電話を掛けてきた相手は『消費者金融業者』だった。返済が
滞っているため、返済の催促の電話を掛けて来ていたのだ。

普通に考えればこの時点で元ダンナに『三行半』を突きつけ
そうなものだが、『離婚』とはそう簡単なものでは無い。
一度、一緒になったものはなかなか離れにくいのである。

私は父の介護などで、元ダンナとの冷めた夫婦生活を省みて
いなかった。もちろん棚上げ状態になっていた『離婚』について
考える余裕も無いほど、疲れきっていたのかも知れない。

私は元ダンナが新たに作った、数十万円の借金を返済した。
義兄
元ダンナの姉の夫、つまりは義兄が末期の『肺癌』であることが
判明して3ヶ月ほど経ったある日、義姉から電話が入った。

義兄が危険な状態なので、一通り家族に会わせるというのだ。

元ダンナと義兄が入院している病院へと向かったが、ベッドに
寝ている義兄の身体にはあらゆる『管』が付いており、とても
痛々しい状況だった。もちろん義兄は起き上がることは出来ない。

まだ意識は有ったので、誰かが面会に来たのはわかっていた
ようだが、私達はベッドの傍まで行かず出入り口のドア付近で
遠巻きに義兄の様子を見ていた。今でも鮮明に覚えている。

それから数週間後、明け方に私宅の電話が鳴った。義兄が逝った
という義姉からの電話だった。私の父が倒れた時もそうだったが
本当に明け方に掛かる電話で『良い知らせ』のものは無い。

春先のまだ寒い時期に義兄の葬儀が執り行われた。義兄宅には
年老いた母と義姉、そして多感な年代の娘が二人住んでいた。

私は父が倒れただけで不安になり涙を流したのに、娘二人は
父親を亡くしてしまったのだ。まだ幼い彼女達にとっては
残酷な仕打ちで、それは計り知れない悲しみだったと思う。

義兄が逝ったのは40代前半という、早すぎる死である。

『父を失う悲しみ』は、この時点での私にはまだわからない。
母の鬱
父の介護で母の心身の疲労はピークに達していたのだろう。
あの気丈な母が泣きながら、私宅へ電話を掛けて来たのだ。

母は「父が自宅に戻って来てからの介護のことを考えると
不安で眠れない」と言っていた。そして幾度か、駅のホーム
から、電車に向かって飛び込みたい衝動に駆られると。

私は何も言えなかった。父を自宅へ連れ帰ると、いくら私達が
傍に住んでいるからと言っても、みなそれぞれ家庭が有る。
実際、母の肩に全てが圧し掛かることは目に見えている。

「私達も傍に居るから。とにかくちゃんと眠って欲しい」

それが私が母に言えた、精一杯の言葉だった。

しかしそんな母の凄いところは、ひょっとしたら自分は
『鬱』になりかけているのではないかと気付いたところだ。

とにかくまず、充分な睡眠を摂ることが先決だと思い
私はかつて元ダンナが通院した心療内科へ出向いて
『睡眠導入剤』を処方してもらうように母を促した。

母は涙ながらに胸の内を全て、担当医師に話したようだ。

以来母の気持ちは持ち直したが、現実は何も変わらない。
介護
『病院』という所は回復の見込みの無い者は、ある一定の
入院期間を経過すれば、非情にも転院させるようだ。

父が入院して3ヶ月が経つ頃、今度は少し山手に有る
『リハビリ』専門の病院へ転院することが決まった。

転院当日、私達家族は主治医から父の病状について説明を
受けるが、ここでもやはり父は「回復の見込みが無い」と
断言されたのである。父は最終的にどうなるのだろうのか。

私は勤務先の定休日や日曜などは、昼前から病院へ出向き
晩になるまで、父の傍で食事や排泄の補助をしていた。

しかし専業主婦だった母は、ほぼ毎日介護に出向いていた。

転院先は今までと違い、少し遠い場所に有ったので電車を
乗り継ぎ通院し、回復の見込みの無い父に一日付き添う。

ある程度の期間入院すれば、いずれまた転院若しくは
自宅に父を連れ帰り、無期限の介護生活が始まる。

ある晩、私宅に電話を掛けて来た母は泣いていた。
重病人
健在だった頃の父は、明るく人なつこい性格だったので
私の友人や弟の友人、母の知人などにとても人気が有った。

みな一様に、倒れた父を「見舞いたい」と言ってくれて
いたが、やはり以前とは全く様子の違った父に会わせる
わけにはいかない。私達家族は申し訳無いが断ることにした。

父は院内の『リハビリ施設』でリハビリを行っていた。
しかし体温調節する機能が麻痺しており、頻繁に発熱して
いたため、継続してリハビリを行うことがままならない。

それでも徐々に体力が付いて来たのか、転院当初よりは
少し体重も増え、身体も動くようになった気がしていた。

その頃、元ダンナの姉の夫いわゆる『義兄』が体調を
崩し検査入院することになり、私と元ダンナは義兄が
入院している病院を訪ねた。何の検査なのかは不明だ。

義兄は時折激しく咳き込むものの、比較的元気な様子で
本人も入院しないといけなくなったことに不満気だった。

思えばこの当時、年回りのせいかどうかはわからないが
私の周りは『重病人』ばかりだったような気がする。

義兄は検査の結果、末期の『肺癌』であることが判明した。
闘病
父の闘病生活が始まった。しかし闘うのは父だけでなく
介護している私達も同じだった。みな初めての経験だ。

食事が点滴から固形のモノに変わったが、父の右半身は
付随な上『運動能力』も麻痺していたので、左手も思うようには
動かない。自分でスプーンを口元に持って行けないのである。

代わりに食べさせてやるが『誤嚥』というのを起こすため
すぐにムセてしまう。咳き込むと口の中に入ってるモノを
吹き出してしまい、介護している側が身体に浴びる結果となる。

父は体温調節する機能も麻痺していたようだ。よく熱を出し
体調の悪い時は成人用オムツを着用して寝ていた。尿瓶で
父の尿を取るなど、いわゆる『シモの世話』というものだろう。

体調の良い時はベッドから車椅子に移動させ、車椅子から
トイレの便座へ移動させていたが、いくら体重が減っていても
力の入っていない大人を抱きかかえるのは体力がいる。

幸いなのは父は一見『痴呆』に見えたが、意識がしっかり
していたことだ。父が何かを話すことは無かったがこちらが
話す内容に対しては、しっかりとした反応を示してくれた。

しかし意識がしっかりしている分、父は甥の葬式の翌日に
自分が倒れてしまったことを覚えているかも知れない。

悲しい記憶が蘇り『脳梗塞』の再発を恐れた私達家族は
暫く妹や妹の嫁ぎ先の家族が、父を見舞うことを拒んだ。

別人
昏睡状態だった父が、ようやく目覚めた。しかしその
様子は私が記憶している『父』とは全く別人だった。

父は右半身が不随になり、片目は違う方向を見ている。
頭部は揺れて口からは終始唾液を垂れており、言葉を
発することなどは、もちろん不可能な状態である。

容態も少し安定して来た頃、妹の嫁ぎ先の義母の計らいで
『リハビリ施設』の有る病院へ、父は転院することになった。

父が『脳梗塞』で倒れたことは、知人などに話していたが
「リハビリですぐ治る」と、みな勇気付けてくれていた。

私達家族も『脳梗塞』の症状について、あまり知識が無く
みなが言う『リハビリ』で父が元の姿に戻ると思っていた。

転院当日、父の病状について主治医から説明を受けたが
父の『脳梗塞』は重症だった。たとえ『リハビリ』を行ったと
しても、再起の可能性は無いと主治医に断言されたのだ。

倒れる以前の父は、背はあまり高く無い方だったが恰幅の
良い体型をしていた。しかし転院先で計った体重は、私と
同じぐらいにまで減っており、私達家族はショックを受けた。

車椅子に乗せられ移動する父は『痴呆老人』のようだった。
第一幕
私と元ダンナを引き合わせてくれた、私の友達は
当時、元ダンナの勤務先の同僚と交際していた。

二人はいずれ結婚も考えていたようだが、男性側が
ギャンブルで作った数百万円の借金が発覚し破局した。

私と友達の父親は共に、かつて金銭トラブルに
巻き込まれている。両親の苦悩を見て育った
二人は『借金の有る男』を毛嫌いしていた。

そんな私に元ダンナは、ギャンブルで作った借金では無い
にしろ、どうしても打ち明けることが出来なかったと言った。

私には元ダンナの、妙な言い訳にしか聞こえなかった。

しかし当時のことを責め立てている場合では無い。
一刻も早く『消費者金融』からの借入れを返済
しなければ、残高は膨れていく一方だ。

この頃まだ私達夫婦には少し蓄えが有り、その一部を
借入れの一括返済に充てた。サラリーマン家庭での
一度に数十万円の出費は、かなりの痛手である。

その時の私の行動を、元ダンナはどう見ていたのだろうか。
発覚 2
小さく折りたたまれた用紙は、銀行のATMの明細書に
見えたが銀行名が見当たらず、私は記載されてあった
照会用フリーダイヤルに電話してみることにした。

音声案内に従い操作していくと、残高は数十万円らしい。

私は愕然とした。用紙は銀行のATMの明細書ではなく
『消費者金融』からの借り入れ時の明細書だった。

私達家族に次々と災難が訪れているというのに
その間、元ダンナは一体何をやっていたのだろう。

私は目の前が真っ白になり、暫く受話器を握りしめたまま
呆然としていた。元ダンナは会社の慰安旅行中で不在だ。

旅行先に電話を入れて、問い詰めることもできるが
そんな些細な問題では済まされない。私は元ダンナが
帰宅するまで、この件は黙って保留することにした。

やがて元ダンナが旅行先から帰宅し、一息ついたところで
私は例の『消費者金融』の明細書を差し出し問い詰めた。

どうやら私達二人が一緒になる前に、急に入用になり
誰にも相談できず、少し借りた金額が膨れたという。

それならなぜ、結婚する前に言ってくれなかったのかと
私は続けて、元ダンナに激しく詰め寄った。

元ダンナは私に言えなかった理由を話し始めた。

私は元ダンナの人間性を見抜けなかった『過ち』に気付く。
発覚 1
相変わらず父の昏睡状態は続いていたが、時折激しく
片腕が動くことが有った。何かの動作をしている
ようだったが、もちろん本人の意識は無い。

私が父の付き添いで疲労のピークを迎えていた頃
元ダンナの会社では、慰安旅行が予定されていた。

元ダンナは「旅行を止めようか」と告げて来た。

私に気遣ってくれる気持ちは有り難かったが
それで父の容態に変化が起こる訳でも無いので
私は元ダンナに、慰安旅行へ参加するよう促した。

慰安旅行当日、元ダンナを自宅から送り出した後
家の掃除などをしていると、リビングで見慣れない
コインケースを発見した。いつから有ったのかは不明だ。

小銭は入っていない様子だったが、中を開けて確認すると
銀行のATMの明細書が小さく折りたたんで入っていた。

私はそれを開いてみたが、どうやらメインバンクの明細書では
無いようだ。しかし、いくら探しても銀行名が見当たらない。

明細書には、残高照会用のフリーダイヤルが記載されていた。
隠ぺい
父が倒れたことを、妹や妹の嫁ぎ先の家族には黙っていた。

しかし妹の嫁ぎ先の義母からすれば、近くに住む実の
母親が、我が子を亡くした傷心の娘宅に葬式以後
一切訪問しないのを不思議に思っていたに違いない。

母は本当は、すぐにでも妹の所へ駆けつたかったのだ。
傷心の我が娘の事を、決して蔑ろにしていた訳では無い。
父の容態が安定しないため、苦しくもそれが出来なかったのだ。

妹は実家の母に電話を掛けるが、一向に捕まらないと言う。
私は妹に父が倒れた事をバレないように話を誤魔化す。

そんな事を数日間続けていたが、妹の嫁ぎ先の義母が
とうとう不審に思っていることを口にし始めた。

母はこれ以上、みなに隠し通すことは無理だと思い
妹の夫にだけ父が倒れて昏睡状態であることを話した。

妹の夫から義母、そして妹へ一瞬の間に知れ渡る。

後に妹の夫から、父の容態を知った妹が自責の念に
駆られ、亡き息子の後を追おうとしていた話を聞いた。

私達3人が、一番恐れていたことだ。
容態
父が病院のベッドに両手足を紐で結わえられている
姿を見て私は不安でたまらなくなり、不覚にも
その場にしゃがみ込んで泣いてしまった。

一体、父はどうなってしまうのだろう。

父は軽い『不整脈』や『糖尿』などを抱えていたが
定期的に医者から薬を処方してもらうぐらいで
入院して治療するなどの大事には至っていなかった。

父は病院に担ぎ込まれてから、すぐにMRIを撮っていた。

主治医はレントゲン写真を見せながら、私達3人に父の
状況を説明してくれた。どうやら血管の中の『カス』らしき
ものが飛んで、父の脳の毛細血管を塞いでしまったらしい。

どの機能の部分の血管が塞がれたのか、説明を受けた記憶は
有るが、よく覚えていない。とにかく父は『脳梗塞』なのだ。

その日から私と母と弟の3人は、昏睡状態の父の意識が
戻るまで、三交替で様子を見守ることになった。しかし
妹や妹の嫁ぎ先の家族には一切知らせる事はしなかった。

我が子を亡くした傷心の妹には、何も言えない。
連鎖
甥の葬式も済み、心身とも疲労がピークに達していたが
翌日からは何も無かったかのように日常が始まって行く。

いや、正確には「始まって行くはず」だった。

明け方に自宅の電話が鳴った。早朝に掛かって来る電話で
『良い知らせ』のものなど無い。私は急いで受話器を取ると
電話はまた実家の母からだった。今度は一体どうしたのだろう。

母は「父が倒れて様子がおかしい」と言っている。

私が実家に駆けつけると、弟も呼ばれていたようだ。
リビングには母と弟と横たわっている父の姿が有った。

父は片目を押さえ、笑いながら何かを言っている。しかし
呂律が回っていないので言っていることがよくわからない。
飲酒して酔った風にも見えるが、父はどうしてしまったのか。

やがて救急隊員がやって来て、母と弟は父と一緒に救急車に
乗り込み病院へと向かった。その間、私は一度自宅へ戻って
いるが、何のために戻ったのか今ではよく思い出せない。

私は病院へ駆けつけ、母と弟と一緒に父の居る病室へ入ったが
なぜか父はベッドに両手足を紐で結わえられて眠っていた。

看護婦の話によると、父は自分の身体が『不随』になっている
自覚の無いままトイレへ行こうとして、ベッドから転落したらしい。
危険なので両手足をベッドに結わえたと言っていた。

父の身体が不随になったのは『脳梗塞』によるものだった。

皮肉にも、甥の葬式が行われた翌日の出来事である。
小さな命 5
葬式での甥の棺は、とても小さいものだった。

私は悲しくて悲しくて、一体どこからこれほどの
水分が出てくるのだろうというくらい涙を流した。

何故こんな事になってしまったのだろう。

産まれてからわずか数ヶ月しか経っていない甥が
一体どんな大罪を犯したというのか。

甥はこれから美味しい物を食べて、嬉しい思いや悲しい思いを
して成長してゆく権利が有ったのに、なぜこんなに短い期間で
人生を断ち切られてしまわなければならなかったのか。

私は今まで自分の好き勝手にやって来た人間だ。
もしも私の残された寿命を分けてやることが出来るなら
甥に分けてやりたいと心の底から思った。

今こうして回想しているだけで、涙が浮かんで来る。

甥の葬式の後、私と弟は両親と実家へ向かった。
突然起こった悲しい出来事に、みな言葉数も少ない。

父はおもむろに台所へ立ち「飲まないとやってられない」と
言って少量の日本酒をコップに注ぎ、一気に飲み干した。
私達は黙ってその様子を見ていた。みな同じ気持ちだった。

しかしそれは私が最後に見た、『まとも』な父の姿となってしまった。
小さな命 4
別室へ移動すると、そこには妹の嫁ぎ先の義父に
『土下座』している私の両親の姿が有った。

義父は起こってしまった事を、責めたり咎めたり
するような人では無いが、私の両親がそうでも
しないことには気が済まなかったのだろう。

我が娘の不注意で『後継ぎ』を死なせてしまったのだから。

妹はこれからも重い十字架を背負いながら、嫁ぎ先の
家族と過ごして行かなければならない。責任を感じて
『後追い自殺』など考えないだろうか。私は不安だった。

翌日に私は妹の様子が心配になり妹宅を訪れた。
甥の亡骸はベビーベッドに寝かされており、妹は私に
亡くなった甥の頬に「手を触れて欲しい」と言った。

甥の顔に触れてみると異常なほど冷たかった。
しかし、その『冷たさ』は遺体が腐敗しないように
周りに置かれていたドライアイスの『冷たさ』だ。

よく「眠っているような顔で死んでいた」という話を聞くが
私には、甥は魂の抜けた『剥製』にしか見えなかった。

何故こんな悲しい事が起こってしまったのだろう。
小さな命 3
私達は甥の亡骸と一緒に最寄の警察へ向かった。
その時に初めて知ったのだが、自宅で亡くなると
警察による現場検証が行われるらしい。

暫くすると妹の夫が仕事先から警察へ駆けつけた。
妹の夫は、我が子を死なせてしまった妹を
責めるでもなく、慰めるでもなく終始無言だった。

妹と妹の夫は警察から『虐待』について問われたようで
妹は泣きながらキレていた。傷口に粗塩のような質問だ。

私達は3人兄弟だが、みな両親の愛情をこよなく注がれ
分け隔てなく育てられた。それは3人共が実感している。

そんな妹が我が子を『虐待』するはずなどない。
私は妹がキレるのも当然の話だと思った。

その後、刑事だと思われる人物と私達は妹宅へ向かった。

妹宅のリビングに入ると、使用済みのティッシュペーパーが
散乱していて、中には血痕が付着したものも有った。

きっと妹が電話口の救急隊員の指示に従いながら
半狂乱になって、我が子を助けようとしたのだろう。

私は漠然と「赤ちゃんて助からないんだな」と思った。

いたたまれない気持ちのまま別室へ移動したが
そこでまた、衝撃的な光景を目にしてしまった。
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